女川の川はもちろん水の流れる川ですので問題ないと思いますが、「女(オナ)」が一体何なのかという事をここでは考察していきたいと思います。いくつか唱えられている地名由来と私がまた勝手に考えたものを以下に列挙します(参考文献:『地名の語源』『日本地名語源辞典』『日本地名大辞典』『地名の由来』他)。
1.「オ(小)・ナ・川」 ナは場所や土地をあらわし、小さな土地を流れる川。
2.「オニ(隠)・川」 山陰の隠れた所を流れる川。
3.「オネ(尾根)又はウネ(畝)・川」 尾根と尾根の間を流れる谷川。
4.「オ・ナ(魚)・川」 魚、特に鮭が上る川。
5.「ウナ(溝)・川」 灌漑用の水を通すための溝を引いた川。
6.「ウンナン・川」 水神のウンナン神が岸辺に祀られている川。
7.「オンネ・ナイ」というアイヌ語 オンネは大きくなる、ナイは川。小さな川が合流して大きくなった川。
8.「オ・ミナセ(水無瀬)・川」 ミナセ川がミナ川に縮まり、接頭語が付いてオミナ、オミナは老婆を、あるいはヲミナで娘と同義である事から女(オミナ)川となり、音便化してオ(ヲ)ウナそしてオナ川となった。
9.「オトナリ(音鳴り)・川」あるいは「ウナリ(唸り)・川」 川の水が音をたてて流れる事から。
10.「ウネリ川」 左右にうねるように流れる川。
前回書いたように女川の地名は中流〜河口の間で生まれたと私は思っています。川そのもの、あるいはこの流域に立って周辺を見渡して、人が川や流域に手を加えてなど、そういうのを含めて自然的、歴史的な成因で地名ができあがったと思います。
考察する上で問題となるのは、今の女川と昔の女川が同じ様相だったのかという事です。
今は中流〜河口の川岸は全てコンクリート護岸されていて、流域は住宅、商店、工場の建ち並ぶ市街地になっていますし、河口付近は埋立地となっています。そんな川で気になるのは中流部の川床が現れた涸れ川が昔と変わりないのか、という点です。
もし、昔からずっと変わらずに涸れ川であれば、上記の説で当てはまらないものが出てきます。4.は水が無ければ魚は遡上する事ができません。7.は合流地点が中流でここから水が無くなるので“大きくなる”という表現はおかしいのではないかと思います。9.と10.は当然違うという事になります。以上のものがはじかれてしまいます。
2.の隠(オニ)は川の水が隠れると捉える事ができますし、5.は涸れ川であるため中流域が水の乏しい土地で上流から水を引いて開墾したと思えますし、6.のウンナン神は川や湖沼などの水辺につくられますが水の無い川では疑問が出てきますし、8.については否定しましたが、普段は涸れ川でも一旦大雨となると土砂が川を通って押し寄せ、音をたてて荒れ狂う事から付いたという可能性もあります。
涸れ川をよくあらわしているのは8.のヲミナ川でこれがぴったりくるでしょうか。
それでは、今とは違って水の流れる川だったとしたらどうでしょう。
女川浜の土地と女川港が本格的に整備される以前は、下流に近い丸子山の北側は沼地で河口付近は湿地帯だっといいます。という事はもしかして女川の中流には水が流れ沼に水を供給していたのかもしれません。
涸れ川だったらという事で否定したものはすべて該当する事になります。ただ6.のアイヌ語説については、女川はそもそもそんなに大きな川でなく、大きいだの小さいだのというほどの川ではないように思うのです。オナ川の地名も関東以西にも見られ、当の北海道にとくに多いというようなものでもないようなので(私の調べたのでは4件だけ)、アイヌ語由来にはちょっと疑問を感じます。それと女川の近在にはアイヌ語由来といわれる地名が無いようですので(それっぽいのはありますが。ただ調べられてないだけかもしれません)、アイヌ語地名がひとつだけポツンとあるというのもおかしいような気がするのです(アイヌ語を知らない私が言うのも何なんですが…)。
中流の川水以外の事で見てみます。
1.の小さな土地は当てはまらないと思います。女川の中流域は女川周辺(町内)では最も広い平地のひとつですのでこれは完全に否定してもよいと思います。2.の山陰の意でみると女川中流域は南北に細長い平地で比較的日当たりの良い所ですので、この考えだと地名由来にはならないと思います。
日本各地にある女(小名、尾名など)川地名は、川そのものと土地の名前とがありますが、多くが山あいにある事がわかります(女川町の女川のように海のそばでも山がすぐに海に接する所にある)。そして川の場合はあまり大きな川でなく、土地名でもその側の川も大きなものではありません。
すべてのオナ川の地名由来がひとつの成因によるとは限りませんが、山あいにある事を考えると3.の尾根川が一番しっくりくるような気がします。川は尾根の間を流れるものなのでどの川もこの名にになってしまいますが、恐らくその周辺では最も深い山の尾根から流れてくるとか、幾重もの尾根をたどって流れてくるとか、尾根のすぐ横を流れてくるとか、尾根に特徴的なものがあるとか、そういうものがあって尾根川となったのかと思います。
平地にあるオナ川に関しては5.のウナ(溝)川の可能性が高いと思います。平地を農地とする際に川から水を引くのに溝をつくった所からこの名が付いたのだと思います。
オナ川だけでなく、オナの付く地名の多くは尾根(畝)、溝が由来なのではないかとも思います。たとえばオナ崎は尾根の突き出した崎、オナ坂は尾根の斜面の坂、オナ田は灌漑用水のある田か、畝状の台地にある田など。他に成因はあるかもしれませんし、北海道のものは確実にアイヌ語由来だとは思います。ただ一般的な見地からするとこの2つの説を私は有力とみて支持したいと思います。
では、宮城県女川町の女川の場合はどうなんでしょう。
女川の下流の右岸に沿うように丸子山と呼ばれている丘陵があります。頂部は削られて、女川第一中学校と浄水場になっていますが、高い所で50mほどのカマボコ型の舌状台地は、河口に向かって伸びて対岸の尾根との間をふさぐような様相をしています。先端部は海岸の埋立て以前は海に接し岬状になっていました。
北側山麓に沼をつくり、下流部を狭めて中流域を盆地状にし、岬となって女川湾に突出し、丸子山と呼ばれているようにユニークな愛称と形状をした丘陵、これが女川の地名由来となった尾根(というよりも畝といった方が合っている形状です)なのかも知れません。
この丸子山に沿って川がある事から、あるいは中流平地が周りに山の尾根がめぐらし、丸子山によってふさがれたような地勢である事から、尾根川、あるいは畝川となって、女川(オナガワ)に転訛したのではないかと思います。
ウナ川の説も捨て難いものがあるのですが、、聞くところによると、藩政時代以前は女川町(組)内で稲作がおこなわれていたのは万石浦沿岸と、ごく一部の浦・浜だけだったそうで、仙台藩が盛んにおこなった新田開発によって、他の浦・浜でも稲田が作られたといいます。それを物語るように女川中流に「新田」という地区があります。新田地名は江戸時代の歴史的地名ですので女川中流域が本格的に稲田の開墾がおこなわれたのは江戸時代からという風になると思います。そうするとウナ川地名はこの時代にできたという事になるかと思いますが、それ以前から女川の地名はありましたので、この説は一歩後退するかなという感じがします(江戸期以前から用水路を引いて細々と農業が営まれていたかもしれませんが)。
ついでにですが、6.のウンナン神は仙台藩内に多くあるようで、それは新田開発とともにこの神社が祀られたといわれています。という事になるとウンナン神説も江戸時代の事になるので、ウナ川説とともに疑問が残ってしまいます。
結論:女川の名前は尾根(オネ)川あるいは畝(ウネ)川が訛って、オナ川となりオナに女の字があてられた、というのがふさわしいと思います。また、地名が誕生した当時、女川の中流が今のように涸れ川であれば水無瀬川が由来というのも考えられるかと思います。
女川の地名由来は以上で終わらせていただきます。
いやいや話がだらだらと長すぎてすいませんでした。ブログにあるまじき長文にお付き合いいただきありがとうございました。






思いつきを書きます。深く調べておりませんので、暇話として流していただいても結構です。
私はこの「魚」を「オ・ナ」と呼ぶ響きをみて、ふと「藤原魚名(うおな)」を思い出しました。
藤原魚名は、本来、光仁天皇からの信頼が厚い人だったようですが、大宰府に流されてみたり、後々桓武天皇に名誉回復されてみたり、波乱の人だったようですね。
ご存知かもしれませんが、魚名は奥州藤原氏の祖「藤原秀郷」の更に先祖にあたります。ちなみに伊達氏の祖「藤原山陰」からもさらに先祖にあたります。
なんとなく気になって魚名の系図を眺めておりましたら、魚名の子に「鷹取」「真鷹」や「鷲取」といった「鷹」や「鷲」の文字が目に焼きつきました・・・。偶然なのでしょうが、思わずこれまでの記事との因果を想起してしまいました。
ところで、ウンナン神はよくニワタリ神とリンクしますよね・・・。
ウンナン神はニワタリ神と同じ水神のようですが、川や湖沼などのそばにあって内陸型のようですね。虚空蔵菩薩の使いのウナギの化身だといいますが、何か私はこれは後付けのような気がして、ウンナンという語がもともとどこから来ているのかすごく気になります。それになぜ仙台藩領に多くあるのか、一体誰によってなぜ広まったのかというのも気になります。
「それになぜ仙台藩領に多くあるのか、一体誰によってなぜ広まったのか」については、私は国分一族によるものと思っております。私には国分氏が何者なのかが不思議です。平姓説、藤原姓説の二通りがあるようですが、どこまで信用してよいものなのか・・・。個人的にヒントとして注目しているのは、国分氏が持つ宗教家的な側面です。
藩内の新田開発に携わりそこにかつての主人の時代から受け継いできた、信仰神等を祀った?(宗教的側面)という風な感じなのでしょうか?実はそこには裏があった!なんてことがあったら面白いのですが。変な妄想をしてしまいそうです。
また仙台市青葉区愛子地区の「諏訪神社」は、中宮・左宮・右宮という一風変わった形式の神社ですが、その右宮には彌渡大神というニワタリと思われる神様を祀ってあります。ここは国分一ノ宮と称されておりますが、この神社は少々気になる点がございます。
きっと博識なEmisi様ならご承知のとおり、普通お諏訪様といえばタケミナカタの神様が祀られているものでしょうが、昭和3年発行の『宮城郡誌』でこの諏訪神社の項を確認すると、不思議なことにタケミナカタの記述はどこにもありません。
正直なところ、それを知ったときの私は鳥肌が立ちました。その後の『宮城町誌』ではまるで付け加えられたように先に述べた三宮に先んじて「建御名方命」が記載されております。
思うに、この神社は本来“諏訪神社ではなかった”のではないでしょうか。では一体何ものだったのか・・・。
ある筋から、「志波彦(姫)神社」の「志波」は、「諏訪」がなまったものという説があることを教えられました。Emisi様のご出身がどちらかはわかりませんが、仙台に生まれた私の感覚からすれば、スワがシワになまることはあり得ません。しかしシワがスワになまることは往々にしてあり得ます。
現在のところ、私は、愛子地区の諏訪神社は、本来志波神社だったのだろうと考え至っております。
なまってスワと呼ばれているうちに、「であれば建御名方が祀られてなければおかしい」ということで本末転倒な帳尻あわせがなされたのではないでしょうか。
では志波神社とは?
・・・と、ほっとくと際限なくなりますので、このあたりで自粛しておきます。
志波神社の神様というのもどういう神様なのか不明のようですが、諏訪の神様が縄文的自然神だったと言われてるようですが、この志波の神様も否定されたそういう歴史のあったものなんでしょうか。
地名ではシワは、歪んだ地形や川の曲がりくねった所、シメニワで貴人が領有し一般人の立入りを禁止した庭園、末端を意味する語、などとしているようですが、末端とか端っこという意であれば、天皇権力の及ぶ範囲の一番端の意味で付けられたのかと思ってしまうのですが…。
仙台市内の「七北田川」はその昔「冠(かむり)川」と呼ばれておりました。志波彦の神様が白馬に乗ってこの川を渡ったとき、石につまづいて冠を落としてしまったことから「冠川」と呼ばれたのだといいます。あるいは志波彦神がこの地に降臨されたことから「神降(かみふり)川」がなまって冠川になったとも言います。私はこの二つの神話は同じものと考えております。どういうことかと言いますと、「冠を落とす」ということは「首を落とす」ということだったのでは?と考えているのです。少なくとも、その地位を象徴していたはずの冠が川に落ちたということは、それほどのんびりした事態ではなかったのではないでしょうか。私は、この川で偉大な人物「志波彦」が死んだのだと思います。もとは志波彦という名前ではなかったのかもしれません。死んで神様になった後、つまり「神降」った後、だいぶ時間を経てから「志波彦」という名前が命名されたのではないでしょうか。
ちなみに、石につまづいたその志波彦大神が、怒って川底の石を全て拾わせて積み上げた場所が仙台市泉区の「石留神社」だといいます。石留神社は、かつて、前回触れました「二柱神社≒仁和多利大権現」に合祀されていたようです。もう少し突っ込ませてもらうならば、その石留神社には妙な伝承があります。ご神体の石が武烈天皇の御霊だというのです。今回の地震で大変な思いをされている栗原に多い武烈天皇伝承ですが、こんなところにもありました。
さて、「志波」はEmisi様がおっしゃるように「端っこ」の意味かもしれませんね。 また、『奥州名所図絵』などのように、志波はシバとも呼ばれていたようです。岩手県の紫波も足利系の斯波氏も同根かと思われます。私見を言わせてもらえば、「志波神」は修験や密教を経て被った「シヴァ神」が訛ったものではないかとも思っております。
冠と首というのには納得がいきますね。志波彦の神様の成り立ちと冠川の名前の由来が理解できます。志波彦神と冠川の話は仙台市の歴史や物語の書いた本で知っていましたが、それはたんなるおとぎ話程度のものだと思っていました。しかし今野様のこの話をみてすごい深い話で驚かされてしまいました。
この志波彦の神様まだまだ深いものがあるようですね。
黒川郡富谷町に「行神社(ゆきじんじゃ)」という神社があります。現在の境内案内板によれば主祭神は「猿田彦命」とのことですが、かつての境内案内板には「行神社(志波大明神)」とも書かれていたようです。志波彦の神様は猿田彦と言われることもあるので、その流れなのでしょうか。
それはともかく、この行神社の地はかつて黒川郡に権勢を誇った「靫大伴連(ゆげいおおともむらじ)の祖廟」という説があるようです。大衡村の「須岐神社(すきじんじゃ)」とセットで、天皇家の大嘗祭の悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)と関係があるという説が有力なようですので「ゆき」という韻から「ゆげい」が後付されたと言う人もいるようです。ただそれだけでは「祖廟」と伝えられる理由はわかりません。
そういえば志波彦神話と関わりが深い仙台市泉区の石留神社にも「神社は伝に武烈天皇の御陵なりしと」と廟所を思わせる伝承があります。どうも志波彦にはなにか死のにおいがつきまといます。
ところで平安時代の黒川郡あたりは大伴氏が本拠としていたわけですが、私はその大伴氏と中央の大伴氏は決して無縁ではなかったのではと思っていることをまず申しあげておきます。その上でなのですが、ふと思い出したのは、武烈天皇が世継なく崩御した後、次代の継体天皇を引っ張り出してきたのは時の総理大臣ともいうべき大連(おおむらじ)の「大伴金村」でした。つまり“大伴氏”です。武烈天皇からみて大伴金村が信頼できる家臣だったのかどうかは知るすべもないのですが、もし武烈天皇が怨霊となる資格充分であったとするならば、志波彦にまつわる伝承は一気に深みが増してくるように思えるのです。志波大明神が仮に大伴氏と深い関わりがある神様だとすれば、志波彦の神様が武烈天皇の御霊とも考えられる石につまづいて死んでしまったという神話は、一体どういう真実を伝えたかったものなのか。それが何故中央を遠く離れた陸奥の地に神話として展開しているのか。
先日の地震についてのブログから、Emisi様は栗原に縁があるようにお見受けしております。以上のように、私は武烈天皇の伝承に大変興味があります。もし情報がありましたら是非教えていただきたくお願い申しあげます。
ちなみに「行神社」が鎮座する地名は富谷町志戸田字“塩釜”であるということを付け加えておきます。
ところで武烈天皇ですが、この天皇の栗原の伝承はあまり知りませんが、『書紀』に書いてある事をそのまま信じたら、何かこの天皇は最近の殺傷事件のまじめなのにちょっとした事でキレ、恐ろしい事件を起こす人間と同じように見えてしまうんですよね。
“5.「ウナ(溝)・川」 灌漑用の水を通すための溝を引いた川。
”
が、妥当のようですね。
最近いろいろ調べているうちにまたこの問題にぶつかったのですが、どうも秦氏が関係していると疑われます。ほぼ確信と言ってもいいのかもしれません。
『豊前国風土記』によりますと、菟名手(うなて)なる人物が、白鳥が餅へと変化し、更に芋へと変化したものを天皇に奏上し、喜んだ天皇から「豊国直」のカバネを賜ったとあるそうです。
谷川さんはこの逸話について、「豊国直菟名手は田に水を引く溝を作ったことからつけられた名であろうから、朝廷は財と技術に優れていた秦氏系の人物に菟名手の名を与えて、豊前国を治めさせたというのが、景行紀や「豊前国風土記」の菟名手の登場の真の意味ではないか。」としておりました。
その傍証として、三重県の宇留富志禰(うるふしね)神社が宇奈根(うなね)神を祀っていることをとりあげておりました。
谷川さんは、その神社の南側の崖下の道路をへだてて流れる名張川から市街地へ引き込まれている用水路に関連して森川桜男さんの論を引いて
「治承二年(一〇六六)には名張川の旧河道に用水溝(ウナデ)を掘り、みごとに開発した例があるという。またその一世紀前には当社の神主みずからが「宇奈抵(うなで)社」と記した文書もあるという。こうして見れば、実際の用水路開鑿をふまえてウナデ神が祀られ、それがウナネ神に移行していった道筋がたどれる。」
と、ウナデとウナネ神、そして秦氏のつながりを補強されております。
ウナネと国分氏のつながりで言えば、仙台市の芋沢――今思えばこの地名も前述の話と関連しそうですが――にある宇那禰神社を勧請したのが郷六氏――国分氏系――であることが代表的だと思うのですが、その国分氏と秦氏のつながりについては現在検証中です。経過については、昨年年末に始めた私のブログに展開していくつもりです。
申し遅れましたが、その節Emisi様のブログにもかかわらず、あまりにずうずうしく持論を展開してしまったことを反省致しまして、好きなだけ妄想を展開できるように自分のブログを立ち上げておりました。お暇なときにでも覗いてみてください。
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513
国分氏と秦氏との関係についての検証、期待しております。時折ブログを見させていただきます。
ただ今回も返事が遅れましたが、うちのパソコン。わたしになかなか使わせてくれないんですよね。今も家族の者がうしろで「早く終わってよ」ってしつこく言っているのです。前までは私の専有物状態だったのにパソコンの使い方を教えてしまったために乗っ取られてしまいました。すいません、うちの家庭事情を愚痴ってしまって。
前から今野様はすごい知識をお持ちだからホームページやブログをもっていたらいいのにと思っていたのです。これからはそれがいつでも見られるようになったのは良かったです。