2009年05月14日

高梨山と石投山

 指ヶ浜の北に高梨(たかなし)山(305m)という山があります。これは「鷹の巣」が変じてタカナシになったというのが山名の由来ではないかと思います。他に「タカ(高)・ノチ(後)」で指ヶ浜の背後にある山の意か、「ナシ」は「ナセ(斜)」で傾斜地の事をいい、これが由来となっているかもしれません。
 さてこの高梨山なんですが、国土地理院の地図だけでなく、民間地図会社の道路地図や観光地図にも山名と標高が記されている事が多いです(縮尺にもよります)。でも、実際の山を見るとそれほど目立った山ではありません。高梨山はその西側にある山(368m)から東へ延びる尾根、そこからポコッと頭を出した程度(20mほど)に盛り上がっているだけの山なのです。また、その延長線上の尾根で高梨山の東側には235.9mの山があるのですが、ともするとこちらの方を高梨山と間違えてしまうほどです(実際そういう観光案内板があった)。
 なぜ高梨山がその東西にある山らしい山を差し置いて、目立たつような山でないのに地図に載っているのか不思議です。
 山名由来から考えて、昔、鷹の巣があって狩猟用の鷹を捕るため、関係者以外立ち入り禁止!といった禁制の山であったために、あるいは、指ヶ浜など山の周辺に住む人にとって食料を得るとかの大事な生活の場であった山であったために、そんな重要な山であった事から山名がずっと残って地図にも載るものになっていったのかなと思うのですが、どうなんでしょう?

 もひとつ女川の山の話を。
 女川町の最高峰は石投(イシナゲ)山(456.7m)とされています。
 石投山は女川町役場からほぼ真北に4q離れた石巻市との境界にあります。布を指でつまんで上に引っ張った時のような形(背の高いヒトデといった感じ)をしていて、女川町内では最も美しい姿をした山ではないかと思います。
 指ヶ浜、高梨山の事を調べていて地図(国土地理院1:2万5千地形図)を見ていたら気付いたのですが、石投山の西北西1.5kmの所に石投山より高い山を発見しました。山名も三角点も、標高点もない山ですが、最高等高線は460mになっています。つまり、石投山より3.3m以上は高いという事になります。
 実際の山をよく見た事がありませんので、どのような姿形をしているのか、地図からでしか想像はできませんが、この山の東側すぐの所に452mの標高点をもつ山がありますので、全体的には2つの峰からなる山で、南北に緩やかで、東西にに急峻な姿をした山なのではないかと思います。
 地元ではちゃんと名前は付けられているかと思いますが、その名は地図には記される事はなく、標高もあらわされていないというのは悲しいものがあります。石投山に「女川町最高峰」の称号を奪われ、「かくれ最高峰」となってしまっている名無し山。何とか日の目を見せてやりたいものです。
 ところで、石投山という名前は面白い山名だと思いませんか。山名の由来に何か伝説でもあってもおかしくないような感じなのですが…。
 例えば…昔々、今の女川港の辺りは大きな沼でした。ある日、大雨で沼に流れてくる川の水で沼の水かさが増してしまい、沼のそばの田んぼや畑が水浸しになってしまいました。村人は困り果てていました。それを見た女川一の力持ちの大男が、みんなを助けてやろうと思いました。大男は沼を海につなげてしまおうと考えました。大男は土砂は南の方へと押しやり、石は北の方に放り投げました。こうやって水路ができて沼の水は海へと流れ、水はどんどん引いて行き、その水の流れの勢いで沼と海を隔てていた所が決壊し、入り江になってしまいました。大男が石を取り除いた所を石浜、土砂をどけてこんもりした山ができてそれがのちにその辺りを小乗(コノリ)というようになり、石を放り投げてできた山を石投山というようになりました。
 なんて、これは全くの私の作り話ですよ。信じないで下さいよ。石投山にかかわる伝説とかは調べましたけどひとつもありませんでしたので。でもこの石投山という名前、伝説好きの私にはすごく魅力的な名前なんですけどね〜。
 石投山の名前の由来なんですが、たぶん「ナゲ」は崩れた所、崖という意味の「ナグレ」からきていると思います。石の崩れた山というのが山名由来なのでしょう。ただ山の形を考えると「イシ」は「菱」ではないかと思いますし、また「美し(イシ)」のようにも思えます。牡鹿地方随一ともいえる秀麗な山容をしている山の名は、ここからきているといってもおかしくないように思えるからです。

 
【地名の最新記事】
posted by Emisi at 13:33| 宮城 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 地名 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月13日

指ヶ浜

 指ヶ浜(サシガハマ)は御前湾の北岸に位置し、女川町最北の集落です。戸数が30戸ほどのこじんまりとした集落で、住民のほとんどが漁業を営んで生活をしています。

 指ヶ浜の地名は、焼畑を意味する「サス、サシ」からきているとされています。集落背後の山の斜面で焼畑がおこなわれていた事から名付けられたのでしょうか。
 石巻市佐須浜の記事でも述べましたが、宮城県内で焼畑地名とされる「サス、サシ」は指ヶ浜、佐須浜の他に石巻市北上町の大指、小指と、南三陸・牡鹿半島の海岸地帯に集中し、北上山地や奥羽山系の内陸部にはほとんどみられないようです(私の調べた所です。他の焼畑地名はたくさんあるのですが)。
 なぜ海岸地域にこう集まっているのか不思議でならないのですが、まあ分からない事もないです。リアス式海岸で平地がほとんどなく、農地は傾斜のきつい山腹を利用するしかないですので。
 近在に集まっているのは、もしかして畑地となる土地を求め、海岸を移動し、開拓した土地に同じような名前を付けた、そういうところなのでしょうか。
 海岸にあるという事で、焼畑とは無関係で、漁業や海上交通と関係する地名ではないかという、ちょっと妄想的な説を佐須浜の所で提起しましたが(海上での自分の位置を確認するための目標物のようなものがあったのではないかという事から)。この考えはどんなもんでしょうかね…。
 ひとつ気になったのでは、指ヶ浜の集落と農地は北から南に向かって流れる2つの沢沿いにあります。この2つの沢の間の尾根が、指の様な形をして海の方向を指さしているような感じなのです。これがサシの由来というのはどうですかね…。
posted by Emisi at 10:41| 宮城 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 地名 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月19日

御前浜

 女川町の北東に御前(オンマエ)湾という入江があります。湾の西、最奥部にある集落が御前浜です。
 御前浜も女川町の入江集落同様、漁業、特に波静かな湾を利用した養殖を基盤とした集落です。
 ただ、御前浜は女川町内では比較的広い平地をもち、北部を流れる御前川下流はかつては水田地帯で、地区南部には田の島、荒井田といった稲作からおこったと思われる地名もあります。
 昭和35年発行の『女川町誌』の集落の状況略説には、御前浜には漁業者が1人もいなく漁船も港の設備もないため海上交通が不便であると記されています。この事から御前浜はかつては、女川町内では珍しく農業を中心とした生活が営まれていた集落だったのではないかというふうに思います。

 御前浜の地名については、奈良時代、陸奥守の百済王敬福がこの地に御所を建設した事から「王前浜」と呼ぶようになり、のちに「御前浜」へと変わったという伝説があります。
 王敬福は東大寺の大仏建立時、陸奥小田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町)で、金を発見産出し、それを朝廷に献上したといわれる人物です。
 地名伝説は尾浦の千葉大王王子のものとよく似ております。王敬福の御所は長期に居住する建物ではなく、陸奥国内を巡回したおりに宿泊したしたものではないかという考えもあるようですが、この話が本当かどうかは近くに同じような伝説があるので、どうもあやしいものを感じます。
 一般に「御前」は貴人や神仏の前という事で使い、地名では有力者や寺社の建造物の前面の土地に名付けられます。御前浜の場合は伝説の王敬福以外はこの地に貴人といえる人は住みついたりしていませんし、大きな寺社もありません。一説には尾浦御殿(羽黒権現)の前という事が地名由来ではないかともされていますが、それならば尾浦の方が御前という地名にふさわしいのではないかと思うのです。
 という事で、またいつものように勝手に私なりに考えた地名由来を書かせていただきます。

1.「ウマヤ浜」 昔、ここに厩(ウマヤ)があった事からウマヤ浜がオンマエ(御前)浜に変わった。 
2.「オネマエ浜」 尾根の前面に広がる浜から。
3.「オノマエ浜」 小さな原野をあらわす小野があり、その前浜。
4.「オウジマエ浜」 全国にオウジ(王子、王寺など)という地名がある。これは熊野神社の末社(熊野王子権現)が鎮座する所で、御前浜にも熊野神社があり、熊野王子権現が勧請され、王子の前の浜の王子前浜が王前浜となり、さらに御前浜へと変わった。
 1.ですが、牡鹿地方は昔はあちこちに馬の放牧場(マキ)があったようで(石巻の地名はこれに由来するという説もある)、名馬を生み出してきた地域でもあります。御前浜にも牧が存在していて厩があった事から、あるいは牧ではなくても農業耕作や海上交通も悪かった所から物の運搬用に馬を使っていて、他の地域より馬が多くいて厩があった事から、厩浜という地名が生まれたのではないかと思います。
 2.の尾根は、御前浜の北西の石巻市との境界の山から御前浜の中央にある熊野神社の丘陵まで延びてくる尾根をさすのではないかと思うのです。ちょうどその末端に御前の浜があり集落が存在します。
 3.は、小さいながらも平地の広がる御前浜の地形の特徴をよくあらわしています。
 4.の熊野神社の縁起については、よく分かっていないようですが、おそらくは熊野信仰が全国に広がり各地に熊野神社が勧請された頃に造られたものではないかと思います。地名はその後にできたと思いますが、王敬福伝説の「王前浜」の地名が「御前浜」に変わったという部分だけは言い伝え通りなのかも知れません。
 4つのうちどれが正しいのかあるいはすべて間違っているのか、それは私は専門家じゃないので、こちらで断定などできませんが、ただ4.は面白いなと思っている次第です。
 しかし、こんな風に難しく考えなくても、単純に熊野神社の前面に長くのびる砂浜で、美称を付けて御前浜になったんじゃないか、ただそれだけだったりするかも知れません。
posted by Emisi at 13:26| 宮城 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 地名 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

方孔石

  皆様大変ご無沙汰しておりました。だいぶ長い間書き込んでおりませんでしたが、別に忙しいわけではなかったのです。このパソコン私個人のものではなく、家族全員の共有物で、みんなゲームだ、デジカメの画像整理だ、勉強で使うんだとか言って、私に順番を回してくれなかったのです。今日やっとゆっくり使う事ができました。

本題に入らせていただきます。

 牡鹿半島の海岸で、海水浴、釣り、磯遊びなどをしている時、落ちている石や岩場に小さな穴があいているものを発見する事があります。穴は丸く、大きさは様々ですが、大体は指の太さくらいです。
 私は初めは何だろうこれは?変わったものだなと思っていましたが、何度も見ていると不思議なものとは思わなくなりました。牡鹿半島ではまあまあ良くあるものでもありますし。ただ、やはり初めて見る人はびっくりしています。
 しかし、私はこれよりもすごいものを見てしまいました。以前「女川の文化人」さんのお宅に伺った時、すごい石を見せてもらったのです。
 文化人さんの持っていたものは穴が四角いのです。きれいな菱形をした穴で、決して人間の手で作ったものではない自然石です。穴の大きさはこれも指の太さくらいで、中には穴が貫通しているものもありました。
 この石は「方孔石」という名前で、全国的にも産地は数少なく、大変珍しいものなのだそうです。宮城県では牡鹿半島地方のごく一部でしか見られないようです。
 どうしてこんな石ができたのか…私は丸い穴のものは大変小さな硬い石が、石や岩のへこんだところに入り込んで、水や風の流れによって回転し、どんどん侵食して穴を作ったんじゃないかと勝手に思っていました(本当はどうかわかりません)。しかし」、この考えでは四角い穴はできるわけがない、方孔石はどうやってできたんだと、すごく不思議に思っていました。
 調べてみたところ、決定的な説はないようですが一番有力なものは、玄能石なるものが岩の内部にあって、それがとけてその部分が空洞になったんじゃないかという説です。石はその部分が水や風によって岩から分離したたもののようです。
 文化人さんは実家が尾浦で、小さい時、海岸でこの石で遊んで拾い集めたりしていたそうです。その時のものを今の家に引っ越しした時に持って来たのだそうです。尾浦の南の竹ノ浦にも方孔石はあって、当時は別に珍しいものという意識は全くなかったそうです。
 方孔石は縄文時代の遺跡からも発見されているらしく、釣りの重りや装身具、祭事具に使っていたのではないかといいます。
 文化人さんは、尾浦や竹ノ浦の港は今はコンクリート海岸になってしまい石を見つけることが難しくなって、本当に貴重なものになってしまったと嘆いていました。
posted by Emisi at 13:40| 宮城 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月25日

尾浦御殿の恋物語を考える

 梁川の鐘師が造ったといわれる大鐘は戦争時の供出でなくなってしまい、尾浦御殿の物語が本当なのかどうか、手がかりとなるものは残ってなく、わからないものになってしまいました。
 でも、実話だったらいつ頃の事だったのでしょう。
 尾浦御殿(羽黒宮)がまだ御殿山山上に祀られていた時期に間違いはないので、2度目の山火事が起こる前、つまり弘化以前という事になります。そして、物語には肝入りが出てきますので、藩政時代である事がわかります。そうすると1600年頃から1800年代前半以前まで、およそ200数十年の間、まあ、ほとんど江戸時代のいつか、という事になってしまいます。

 尾浦御殿の鐘突けば
  伊達の梁川思い出す
 尾浦御殿のサイカチの木は
  花は咲けども実がならぬ
 私は『遠島甚句」』はよく知っていて歌う事ができます。というのも父が宴席で必ずと言っていいほどこの唄を歌い、家にはレコード、カセットテープ(父が歌ったもの)があり、小さい頃から聞かされていたからなのです。
 また、尾浦御殿の話はどこで誰に聞かされ知ったのか分からないのですが、なぜかずっと頭の中に入っていました。ただ、うろ覚えで尾浦がどこにあるかなど知りませんでした。
 尾浦御殿の物語と遠島甚句の歌詞を比べ見ると、私はどうも違和感を覚えるのです。

 「鐘突けば―」の方の歌詞ですが、これは娘が御殿の鐘を突くと別れた梁川の鐘師の事を思い出してしまう、というような意味なのでしょうが、でもなぜ「伊達の梁川」という詞になるのでしょう。これだと何か梁川という土地やそこで起きた事が思い出されるという風に言っているようにみえます。物語や娘の心情をあらわすなら「梁川の鐘師思い出す」といったような詞の方がふさわしいのではないかと思うのです。曲の音の数(甚句7・7・7・5)に合わせる必要があって詞を省略したとか、そういう事もあるかもしれませんが、でも、やはり土地よりも人物を「思い出す」というのが適当なのではないかと思います。
 それで私はこんな事を考えたのです。もしかして、この物語は尾浦の話ではないのではないか。
 物語の中に「旅の商人」が出てきます。伊達の梁川に名人の鐘師がいるというのを紹介した人物です。この商人、実は鐘師を紹介したのではなく、この物語のもととなる話を伝えたのではないでしょうか。
 仕事で尾浦にやってきた旅商人は、泊めてもらった家で、家の人たちを前に旅の話をした。その中に梁川の鐘にまつわる恋物語があった。その後、尾浦御殿で鐘の奉納があって、尾浦の人は以前商人から聞いた話をこれにかぶせ、尾浦の話へと変えてしまった。 
 こんな風にして恋物語ができあがったんじゃないかと、ほとんど妄想ですが思ってしまったのです。

 「サイカチの木―」についても次のような事を思いました。
 鐘師と娘は思い思われ恋が芽生えはぐくんでいったが、別れに終わり結実する事はなかった。御殿のサイカチの木も実のなる事はない。と言っているのだと思いますが、この歌詞は恋物語をうたっているのではないのではないでしょうか。
 石巻地方は中世400年間も葛西氏の領地でした。葛西氏は秀吉の奥州仕置で領地を没収されました。旧家臣たちは、落ちぶれても「サイカチ」は「葛西勝ち」に通じるというので、再興を願いサイカチの木を庭などに植えたと言います。
 前に、尾浦御殿と千葉氏それに葛西氏との関係を書きましたが、尾浦御殿も葛西とつながりがあると思いますので、旧家臣かが御殿にサイカチを植えたのかもしれません。サイカチは「再勝ち」にも通じると言われています。しかし残念ながら、奥州総奉行という地位、南朝について戦った栄誉、北上川流域を領有した戦国大名としての力、かつての勢力を取り戻す事はできませんでした。そんな葛西氏の不遇を民謡にのせてうたったのではないかと思うのです。 
posted by Emisi at 13:45| 宮城 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | たわ言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月19日

尾浦御殿 恋物語

 その年の夏は尾浦をはじめ、近隣の浜浜は大漁に次ぐ大漁で、今までにないほどの活況を見せていました。
 その様子を見て、尾浦御殿(羽黒権現)の法印が「これも皆の厚い信仰の御利益でしょう、その御礼に権現様に鐘を奉納してはいかがでしょう」と、尾浦の肝入りやまとめ役達に声をかけてみました。話を聞いた人は即答でそれはいいと答えました。他の尾浦の人達にも伝え、さらに他の浜の人達にも話したところ、皆は大変喜んで賛同しました。
 さっそく、鐘を誰に造ってもらうかとなり、旅商人の話で伊達の梁川(福島県伊達市梁川)に名人といわれる鐘師がいるというのを聞いて、その人に依頼する事にしました。肝入りと神主は手紙を書いて、つかいを梁川に送りました。
 およそ1ヵ月後、尾浦に鐘師がやって来ました。鐘師は30代のたくましい男です。尾浦の人は鐘師が鐘造りに専念できるようにと、1軒の家を与え、その隣の家の娘に身の回りの世話をさせました。
 鐘師は各浜の人達に金属類を出してくれるように言いました。皆はありとあらゆる金属品を出し、女達は鐘の音が良くなるというので金銀のかんざしを出し、浜は大漁で潤っていましたので現金を寄付する者達もいました。集まった物を見て、5、60貫の大鐘を造る事にしました。
 鐘師は浜の人達と協力して、鋳型やかまどを造り、それと尾浦御殿までの山道を修復し、御殿には鐘楼を建てるなどして作業を進めました。
 朝から夜まで働く鐘師に、娘は献身的に世話をしました。食事、掃除、洗濯と一切をやってくれる娘に鐘師は心が引かれるようになりました。娘もまた一生懸命に働く頼もしいい姿の鐘師に恋心を抱くようになりました。
 秋から始めた鐘造りは2月も終わる頃にようやく終わり、各浜に3月7日の例祭前日に、尾浦から御殿まで引き上げ作業を行う事を通達しました。
当日の朝は、総出の尾浦の人をはじめ、近隣からたくさんの手伝いの人が集まりました。大鐘はそりの上に載せ、皆で声を掛け合いながら引き上げました。急坂、曲がりくねった道があって難渋を極めましたが、それを乗り越え夕方には鐘楼に鐘を吊るす事ができました。
 そして、法印が祈祷を行って突き初めをしました。鐘の音は山中に、そして山を下り浜へと鳴り響きわたりました。作業に従事した人達には今までの労苦を忘れさせるものがありました。娘の耳にも鐘の音は入りましたが、それは淋しさを伝えるものでした。これで鐘師の仕事が終わり、故郷へと帰ってしまうのかと。
 翌日の例祭は大変な賑わいでした。御殿への道は参詣者が列をつくり、境内は人であふれ、人々は我先にと鐘を突き、1日中鳴り続けました。
 例祭が終わると、浜は元の生活に戻り、人々は漁の仕事が忙しく鐘師の事は忘れかけていました。鐘師の方は訪れる客が少なくなって、満たされない気持ちになりましたが、何よりも寂しさを感じたのは隣の娘が世話する事が少なくなって、来るのがめっきり減ってしまった事です。
 鐘師はもう梁川に帰らなければならないのですが、娘のそばを離れがたく、1日また1日と先延ばししていました。しかし、周囲の目が気になりだし、心ならずも尾浦を去る決意をしました。
 鐘師が梁川へ帰る事を告げると、尾浦の人達は残念がりましたが、娘は誰よりも寂しさを感じ悲嘆にくれました。
 別れの日、娘を含めた女性5人が御殿峠まで見送りました。峠から坂道を下って行く鐘師に女達は別れの言葉をかけました。娘は一言だけ「さようなら」と言ったまま顔を手で覆い泣き出しました。これを見た鐘師は我慢しきれず坂をかけ上り、娘のそばに行き「どうかあきらめて、泣かないでくれ」と最後の言葉を言い、涙で目をにじませさよならをしました。女達は2人の様子を見て悲哀を感じ何も言う事ができませんでした。
 その後の鐘師の事は伝わっていませんが、鐘師と娘の別れは女達の噂の的となり、浜中に広まりました。しかし、皆に好かれ気立ての優しい娘であったので、悪く言う者はいなく皆は同情の目で見つめていました。

 尾浦御殿の鐘突けば
  伊達の梁川思い出す
 尾浦御殿のサイカチの木は
  花が咲けども実が生らぬ
 これは牡鹿半島地方の民謡『遠島甚句』の歌詞の一部です。民謡にいつ誰が詞を付けたかわかりませんが、尾浦御殿の悲恋の話は民謡にのせて、尾浦から周辺へと広まり、多くの人に知られるようになりました。
posted by Emisi at 11:07| 宮城 晴れ| Comment(2) | TrackBack(0) | 伝説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月05日

尾浦御殿

 今までの記事中に「御殿峠」の地名が何度か登場していますが、この峠についてもう1度簡単に述べたいと思います。
 現在の国道398号線・リアスブルーラインが開通する前までは、女川・北浦(桐ヶ崎、竹ノ浦、尾浦、御前浜、指ヶ浜)間の陸路は、石浜から北東に山越えする細い道でした。つづら折りの山道を登り切ると1本杉があり、ここが御殿峠で道は桐ヶ崎、尾浦、御前浜へと三方へ分岐して下って行きます。この一帯の山を御殿山と呼んでいて、女川港からみると崎山からの稜線は同じくらいの高さを維持したままなだらかに続いていますが、御殿峠は特に周りより低くなっているというわけではありません。
 御殿峠の名はこの近くに「尾浦御殿」と呼ばれた羽黒宮(羽黒権現)があった事によるといわれています。

 羽黒宮は古文書から元久2(1205)年に創建されたと考えられていて、その後長く北浦では唯一の神社であったようです。御殿峠に鎮座していた時は、2度の山火事にあい、最初はいつかは不明ですが、安永風土記書出の記録と古跡の規模から、安永以前にあったのではないかとみられ、2度目は弘化年間(1844〜1848)におこったといわれています。これによって羽黒宮は尾浦集落との間の山腹に移転しました。そして火災後の跡地には「羽黒権現奥院」の石碑が置かれました。移された社殿も3度目の火事にみまわれ、明治5年現在の尾浦集落の高台に「羽黒神社」として建立されました。
 尾浦には護天山保福寺というお寺があります。大永2(1522)年に照源寺(女川町浦宿浜)2世によって曹洞宗寺院として開創されたとなっていますが、800年以上前に御殿山上に創建された修験寺院が前身であると言い伝えられてもいます。これは尾浦御殿の事をさしているのかと思います。尾浦御殿はもしかして羽黒修験の霊場だったのかも知れません。

 『新撰陸奥風土記』は延喜式「牡鹿十座」の伊去波夜和気命神社は尾浦・護天の久呂宮(羽黒宮)であるとしています。通説では石巻市水沼の伊去波夜和気命神社となっています。また久集比奈神社は女川町女川浜にある白山神社の事であるともしています(通説は石巻市上品山)。これが本当なら女川地方には牡鹿十座が2社もあった事になり、この辺境ともいえるこの地方にも早くに中央支配の手が及んでいたという事になります。しかし応永の古文書には女川・北浦地域の神社はこの2つしかないという記述があって、かなり長い間、新しい神社の建立はなされていなかったようでして、それ以上の手が加わらなかったという事だったのでしょうか。久呂宮こと羽黒宮は元久2年の創建と考えられていますので、延喜式からは大分あとの時代です。羽黒宮の前身とされる神社があったのかもしれませんが、ちょっとおかしな感じがします。どうも『新撰陸奥風土記』の説には少し疑問を感じてしまいます。

 さて、御殿峠(山)の地名由来について戻りますが、地名としての「ゴテン」には、貴人の住居や神社の社殿のある所の意があります。他に台地や高い所、また切り立った岩という意もあります。御殿峠の地名は神社からとられたというのは有力ではありますが、もしかして高い所を意味するゴテン(御天、護天)から名付けられたというのも考えられます。尾浦をはじめ北浦や女川地域の人にとっては陸上の移動には難渋して登らなければならない山で、また峠は分岐点であり、浜への入り口でもありました。そういう山ですの神聖視するのは当然でしょう。はじめは、道祖神やお地蔵さん、お不動さんといったものが祀られていたりして、のちにゴテンの名にになぞらえ大きな社寺を建立するまでに至り、御殿という風になったとも考えられます。
posted by Emisi at 12:14| 宮城 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 地名 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月22日

尾浦

 尾浦(オウラ)は竹ノ浦の北にあって、女川の北東に点在する集落をあわせた通称・北浦と言われる地域の中央に位置しています。人口も竹ノ浦と並んで最も多く有し、古くから北浦の中心地的役割を担ってきました。主産業は漁業で、集落の前面(東)に波静かな入り江をもっている事から養殖が盛んに行われています。

 尾浦の地名由来については『安永風土記書出し』に次のような事が記されています。
 神亀年間(724〜729)、天竺釈旦国千葉大王の王子が船で日本まで漂流し、当浦に流れ着いた。そして王子が上陸した事から、この地を「王浦」と呼ぶようになり、中古には「大浦」と改められた。その後いつ頃からか現在の文字へと変わった。

 この話は、前に記事で書きました針浜や石巻市御所入、東松島市宮戸島の地名伝説とそっっくりで、また石巻市流留の旭島の漂着伝説にも似た点があります。恐らくは尾浦の地名伝説も全国に無数に存在する貴人の地名伝説や漂着伝説のひとつではないかと思います。
 藩政時代、尾浦の肝入は千葉姓でした。初代は王蔵、2代・3代は大蔵という名で、これは尾浦の地名変遷と全く同じです。
 勝手な想像ですが、奥州藤原氏の滅亡後の論功によって、千葉介常胤は奥州に多数の所領を得、息子達にそれを分け与えました。奥州の千葉氏についてははっきりと分かっていない事が多いのですが、1230〜1300年代下総千葉氏の一族達が奥州に下向しました。北上川流域は葛西氏が領していましたが葛西氏は千葉介胤信を養子に迎えたといわれます。豊臣秀吉の全国統一で葛西氏は改易され、奥州千葉氏も没落してしまいました。千葉一族は各地に散って農民となり、その地の有力者になった者が多いといいます。尾浦の肝入となった千葉氏もその1人だったのではないでしょうか。千葉大王王子の話は名家である我が千葉氏の移住を貴人漂着伝説にたとえて作り上げたものではないでしょうか。
 千葉大王の王子は晩年になって石巻市雄勝町大浜に居を移して住み、葉山神社境内にはその墓所があります。大浜には現在でもその子孫が住んでいるといいます。

 尾浦集落の背後(西)には御殿峠があります。ここから2つの尾根が東へ延び、その谷間のふもと海岸に尾浦集落があります。尾根の1つは集落の北に小さな半島をつくり、もう1つの尾根は集落の南側から海に向かって細長く弓なりに突き出した半島を形成しています。この2つの半島を地図で見るとカブトムシのオスを横から見たような形をしています。
 尾浦は半島をつくる2つの尾根にはさまれた所にあるため、尾根の浦・尾浦と名付けられたのではないかと思います。また、2つの半島でできた湾を塞ぐように沖合いに出島(イズシマ)が横たわっていて、尾浦湾は半島と島の尾根で取り囲まれたような形になっています。
 石巻市(旧河北町)の北上川(追波川)河口近くに尾崎(オノサキ)という所があります。南の明神山から延びた尾根は北上川河口に向かって北進し、尾崎はその先端近くにあります。尾崎は長面浦(ナガツラウラ)という潟湖に面していますが、長面浦はこの尾根によって形成された部分が多きいです。尾崎も尾浦と同様、尾根に関係した地名だと思います。
 尾浦湾を見渡せる御殿峠のような高い所に立つと、南側の細長い半島が龍の尾のように見えます。これももしかして地名由来の1つになっているかもしれません。
 それからもう一つの考えとして、御殿峠には、かつて尾浦御殿(羽黒宮・羽黒権現)と呼ばれた当時の女川地域では規模の大きな神社があっって、そのふもとの集落である事から「御浦」と敬称が付けられた地名となったという事も考えられます。
 千葉大王王子の墓のある大浜も御浜が地名由来かと思いますが、葉山神社がちょっと気になって、葉山は端山で、山の尾根の端という意味で、これももしかして「尾浜」から大浜になったのではないかと思いました
posted by Emisi at 11:06| 宮城 晴れ| Comment(6) | TrackBack(0) | 地名 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月16日

竹ノ浦

 竹ノ浦(タケノウラ)は桐ヶ崎の東、山ひとつ越えた所にある集落です。ここも町内の他の集落同様、漁業を営む人の多く住む所です。
 竹ノ浦の地名由来は字のまま、竹の多く生える入江(浦)というふうにされています。たぶんそうなのだろう…という感じはするのですが…。
 地図で宮城県内の海岸部を見渡してみたところ、地名に「タケ」の付く所がまあまあ以外にあるもので、気仙沼市唐桑「竹の鼻」、同市大島「竹ノ下」、南三陸町志津川「竹島」、石巻市「竹浜」「小竹浜」など。なかで遠島(牡鹿)地域に3つもあるというのが気になりました。
 竹ノ浦、竹浜、小竹浜のいずれにも私は行った事があります。別に地名由来を検証する目的で行ったわけではなく、釣りやドライブでたまたま立ち寄っただけ、だったりなんですが。その時の記憶(ぼんやりなんですが)と地図を見て思った事は、3つの集落とも小さな湾に臨んでいて、湾口の海岸は荒々しい崖となっています。この事からタケは崖や切り立った岩などをあらわすガケ(カケ)、ダケを意味しているのではないか、そう思ったのです。竹ノ浦湾口の東海岸は屏風のように崖が連なり、まさにガケの浦といった感じです。気仙沼市や南三陸町などのタケの名の付く地名にもガケやダケに関係しているものがあるかも知れません。
 またタケには高いを意味するものがありますので、山に囲まれた入江・海浜から竹ノ浦や竹浜、小竹浜になった可能性もあります。内陸にはタケの名の付く地名が数多く見られますが、この高いが由来となっているものが多いです。山間地や渓谷、台地、自然堤防などの微高地など、周囲に高い山が存在する、周囲より高い所に所在するなどで地名となったものです。。なかには植物の竹と関係しているものも多くあります(例えば竹ノ内。周りを竹で囲んだ要害が地名由来となっているものもある)。
posted by Emisi at 11:10| 宮城 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 地名 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月08日

リアスブルーラインの心霊スポット

 もう秋で、このお題は時期外れの感がありますが、ちょっとだけ涼んで下さい。

 リアスブルーラインというのは、国道398号線(石巻ー湯沢)のうちの女川・雄勝間のリアス式海岸沿いの道をいいます(単にブルーラインと言い慣わされています)。
 この話は石巻に住む知り合い(このブログにたびたび出てくる石巻の友人とは別の人です)から聞いたものです。彼曰く、ブルーライン沿いにはいくつかの心霊スポットがある。

 まずひとつが石巻市雄勝町の水浜トンネル。トンネルの出入り口に女性の霊が出るらしいです。トンネル内に出るとか怪奇現象が起こるとかいう話もあるそうです。
 それから同じ雄勝町の天雄寺。夜中にお寺に向かって参道を、列をつくって歩く人たちの霊が現れるそうです。
 そしてもうひとつは桐ヶ崎と石浜の間にある小白浜。この話は1番詳しく聞かされたのでこれからお話しします。

 小白浜は小さな入り江に臨む浜で人は住んでいません。昔は何軒か家があったそうですが(番屋だったという人もいます)今は荒れ地と化しています。
 小白浜の山側をブルーラインが通っていて、そのそばに墓地があります。墓地は桐ヶ崎の住民の所有しているものですが、中には石浜の人達のもあるそうです。
 ある年の入盆の前日、日のだいぶ暮れた時間。雄勝まで客を乗せた女川のタクシーが女川への帰り道、小白浜に近付いた時に運転手は道の端で手を上げている人を見つけました。運転手は車を止めドアを開けると客は若い女性で「石浜まで」と言って座席に座りました。運転手は誰も住まない小白浜からなぜ女性が1人、こんな時間に…まさか…と思いましたが、真っ暗闇でも、丑三つ時でもないし、それに女性は顔は色白だけど明るい感じがするので、まあそんなことはないだろうと思い、車を走らせました。
 車が石浜の市街地まで来ると女性は道を指示し降りる所を告げました。車が2、3度角を曲がり運転手が付いた事を知らせると、女性はお金を渡しました。払ったお金の中の硬貨はやけに冷たかったそうです。そして女性は細い道へと消えるように入って行きました。
 お盆の終りの日の夜。このタクシーが女川から石浜まで客を乗せ降ろし、女川に戻ろうとした時、突然若い女性が車の脇に現れました。運転手はドアを開け客をみたら、前に小白浜から乗せた女性である事がわかりました。女性は席に座り「桐ヶ崎まで行って下さい」と言いました。女性は前に比べ何か重く暗い感じがして、車を走らせてからずっとしゃべらず、少しうつむいたまま悲しげに座っていました。
 タクシーは崎山公園を過ぎ、小白浜に近付きました。運転手は前はここで乗せたんだったなと思い、後ろの席を見ました。するとそこには女性がいません。消えてしまいました。運転手は驚き慌てました。どこへ行ったんだともう1度後ろを見たり左右を見たりし、右側の小白浜の方を見た時、ボーっと光るものが漂うように墓地に向かって飛んで行くのが目に入りました。運転手は今乗せてきた女性の人魂だと思い、もう怖くなってスピードを上げ、桐ヶ崎を過ぎ、その先の竹ノ浦まで行きました。
 ブルーラインは1本道で迂回路が無いので、女川に戻るには今来た道を再び通らなければなりません。運転手は1人で走るのが怖いので、女川方向に行く車を待って、その後ろについていって女川に帰りました。

 この話を女川の何人かに話したところ、誰一人知っているという人はいませんでした。石巻の知り合いも女川の人に聞いたわけではなくまた聞きのようなので、この話はちょっと胡散臭いものがあります。ただ天雄寺の話は地元では有名らしく見た人も随分いるらしいとか。
posted by Emisi at 13:58| 宮城 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 怪異譚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする